ケネディ マリリン モンロー。 マリリン・モンローがケネディ大統領の誕生日祝いで着たドレス、5億3000万円で落札(画像)

マリリン・モンローがケネディ大統領の誕生日祝いで着たドレス、5億3000万円で落札(画像)

ケネディ マリリン モンロー

ケネディのほかにケネディの愛人だったアメリカの大女優マリリン・モンローも暗殺されました。 1950年代、大富豪で実業家の父親ジョセブ・ケネディが業界に多額の投資 をしていた関係で、当時上院議員であったケネディはハリウッドに頻繁に出入りしていました。 国民の人気を得ていたケネディがあるパーティーで、有名になる前の金髪の美人女優 ノーマ・ジーン・モーテンソン に惹かれたのです。 モンローは当時4回の結婚、離婚を繰り返していた恋多き女性でした。 ケネディがモンローに近付き二人の情事が始まったのは、ケネディが大統領に就任した 1961年以降だといわれています。 モンローとケネディの関係は、ケネディの妹の夫のピーター・ローフォードやモンローの家の 家政婦のレナ・ペピートーンなどにより証言されています。 また、モンローはジョンの弟で司法長官を務めていたケネディの弟ロバート・ケネディとも 関係があったとも囁かれたことがあります。 当時ケネディは、ジャクリーンとすでに結婚しており二人の子供もいましたが頻繁な 女性関係はあとを絶たずアメリカ大統領になってからもモンロー以外にも数多くの芸能界の 美女と関係していました。 その中でケネディとモンローの関係は特別に親密で深い関係にあり、ほかのどの女性よりも 長く続いていたとモンローの友人や関係者が語っています。 ケネディとモンローとの真剣な情事が始まってから、その事実は首都ワシントンの ホワイトハウスの内部関係者の誰にも知られていましたが、一般メディアには トップシークレット(最高機密)でした。 国民にもっとも尊敬されている大統領に愛人がおり、その相手がハリウッドのセックスシンボルで 女優として有名なマリリン・モンローであるという事実が一般に知れわたれば 国の指導者としての立場はモラルで失格しケネディは辞任を迫られる結果になるからでした。 その一方、大統領に夢中になっていたモンローは「いつの日かファーストレデイになることを 夢見ていた」とモンローの前夫のロバート・スラッツァーは彼の著書に書いています。 ケネディとモンローは、ケネディの義理の弟でイギリスの映画俳優ピーター・ローフォードの ロサンゼルスのマリブ海岸にあるビーチハウスやニューヨークのホテルので 頻繁に密会を重ねていました。 ベッドでゆったりした気分でしゃべりまくるケネディは、当時ソ連と冷戦関係にあった アメリカの内政や軍事極秘事項までモンローに漏らしてしまっていました。 ケネディから聴いたこのような極秘情報を、マリリンは綿密に自分の日記に記録していました。 これがのちになって、マリリン・モンロー死亡の真相の鍵を握るといわれている有名な 「赤い日記帳」です。 また、モンローは電話で長話をするのが好きな女性で映画の撮影中に起きた監督や プロデューサーとのいざこざやケネディとの密会中の出来事を友人や知人に おもしろおかしく話すのが毎日の楽しみでした。 ケネディの日常の行動と電話での会話は、公式であろうとプライベートであろうと すべて盗聴されていました。 モンローの電話での会話もすべて盗聴されており彼女の寝室には盗聴機が仕掛けられていました。 モンローはある日、親友の1人で政界やハリウッド映画界に精通していた記者の ドロシー・キルガレンに電話で 「実は大統領からUFOの話を聞いた」と言いいました。 キルガレンは、を通してすでに大まかな内容は承知していたので 驚かなかったといいます。 キルガレンは、ケネディ大統領暗殺の真相を独自に調査研究しており、暗殺の単独犯とされた オズワルドを射殺して刑務所に服役中のジャック・ルビーに独占インタビューをしています。 しかし、そののちに 自殺に見せかけられ殺されています。 情報部の盗聴によって、ケネディがモンローに漏らしている機密事項を知り、情報部はその件を 大統領に厳重に警告しました。 アメリカの指導者が最高機密事項を一般市民に知らせることは、国家の行政・司法・軍事を 侵害する犯罪者または国家反逆罪に問われ、大統領辞任はもちろん逮捕され裁判で懲役刑に 処されるか運が悪ければ死刑をも言い渡されることにもなりかねないのです。 自分の立場を憂慮したケネディは、モンローとの関係終わりにしようとしました。 しかし、モンローはケネディを諦め切れず、しつこく彼を追い回していました。 窮地に陥ったケネディは、ホワイトハウスにかかってくるモンローからの電話と送付されてくる ラブレターを一切シャットアウトして彼女との関係を完全に遮断しました。 ケネディにこのような仕打ちを受けたモンローは、その理由と真相もわからず憤慨し落胆しました。 1962年の夏、大統領から絶縁され心を痛めていたモンローはそれが元でとなり 不眠症にかかり多量のアルコールを飲みふけり大量の薬を飲むようになってしまいました。 そして、映画での演技も失敗を重ね監督には怒鳴られ、挙げ句には制作プロダクションである から解雇されてしまいます。 彼女はと診断され、精神分析医ラルフ・グリーンソンの治療を受けはじめます。 憤慨しているモンローは、友人たちに電話で「私はケネディに捨てられた」 とケネディへの怒りと恨みを話しています。 そして、モンローはケネディから聞いた最高機密事項を暴露し記者会見を開いて 全部話したために記者会見をセッティングしてしまいます。 当時、マリリン・モンローは世界でもっとも有名なハリウッド女優であり、彼女が記者会見を開いて 何かを発表するとなればマスメディアが注目するのは当然でした。 その 記者会見の日時は、1962年8月6日、月曜日と予定が組まれました。 モンローは8月4日の夜、知人に次のような話をしています。 「記者会見では、誰もがショックを受けることを暴露してやるわ。 この全世界の人類がショックを受けることを……」 この電話も盗聴されていました。 そして、 マリリン・モンローは記者会見が予定されていた前日に死亡しました。 1962年8月5日、自宅の寝室で全裸で死んでいるのが発見されました。 没年36歳。 彼女はノイローゼで、しかも不眠症のため睡眠薬を常用していたので、死んだときは事故死説 自殺説を信じられたのです。 日記帳に記されたケネディから聞いた秘密事項は 「赤い日記帳」とともに行方不明になっています。 死の直後、マスメディアでは「死因は睡眠薬の大量服用による急性中毒で自殺の模様」 と大々的に報道され、世界に多大な衝撃と悲嘆が駆けめぐりました。 ただの過量服薬であるとの声もある上「『女房は生きていた』の主役を降ろされたことを悲観して」 との根拠に欠ける仮説も唱えられました。 しかし、2000年代に入りFOXニュースがフォックスの倉庫から発見した資料によると FOX首脳部との会談でモンローとそりの合わなかった監督を降板させモンローを 復帰させる契約が交わされていたことが分かりました。 さらに、『』というミュージカル大作への出演も決まっており 「マリリン・モンローが配給会社から見捨てられ失意の中で死んでいった」という 仮説は成立しなくなりました。 1980年前後以降は自殺説は影を潜め、何者かによる謀殺説が根強く叫ばれ続けています。 謀殺説は、モンローの死後間もない時期から存在していました。 現場からは自殺に使うはずのコップは発見されておらず、また彼女が遺体で発見されたときに 手には受話器が握られていたもののFBIが押収したモンローが死亡した前日と死亡した 夜の電話の通話記録には電話局からは同時刻の通話記録はなく部屋からは彼女の 赤い日記帳が消えていました。 そのため電話の通話記録の改ざん、隠蔽を行うことができる政治力の持ち主が モンローの死にかかわっていたとする主張があります。 「急性睡眠薬中毒による体の不調を受けて救急車を自ら呼ぶために受話器を取ったものの ダイヤルする前に事切れた」という説もあります。 モンローの元夫で、今年78歳になるロバート・スラッツアーは、モンローの死の直後から 「マリリン・モンローは殺された」と一貫して主張します。 ロバート・スラッツアーは、次のように語っています。 「離婚後もマリリン・モンローとは仲の良い友達だった。 彼女が自殺するなんて、考えられない。 彼女の死の先にはホワイトハウスとCIA、ケネディ兄弟がいる」 そののち、新たな情報がニューヨーク・マンハッタンに住む弁護士カール・ピアソンから もたらされました。 ケネディ大統領は上院議員の時代から、ローレンス・キューザックという顧問弁護士を 雇っていました。 ローレンス・キューザックはすでに死亡しましたが、ケネディ自筆の極秘資料は 息子レックスに託され、めぐりめぐって今はピアソンの手元で管理され、関係者の間で キューザック・ファイル(J・F・K極秘メモ)とよばれています。 そのメモがケネディの自筆であることは、ロンドン警視庁の筆跡鑑定でも証明されています。 膨大な資料の中には、マリリン・モンローとの関係を裏付けるメモもありましたが それ以上の衝撃の記述が残されていました。 「あのことは絶対に口外しない。 口止め料として60万ドル(6千万円)支払う」という マリリン・モンローとの契約書のコピーがありました。 CIA機密文書には「マリリン・モンローは危険な女だ。 国家を脅かす機密情報を知っている」 とタイプされています。 マリリン・モンローは、友人のジーンに「私はUFOの秘密を解き明かす大変な証拠を 知っているのよ」と語ったまさにその2週間後、自宅で死んでいるのを発見されました。 ロス検視局では、死因は睡眠薬のとなっていますが、その朝に検視官の調べ た結果は彼女の胃や消化器官や腎臓にはバルビタール服用の証拠は検出されませんでした。 バルビタールを飲んで死にいたるには少なくとも52錠以上が必要で、これだけの量を飲んで 胃や消化器官に何も残っていないことはありえないといいます。 それに、バルビタールの飲みすぎ特有の症状である引きつけも起こしておらず マリリンは身体をまっすぐにして横たわっていました。 つまりモンローは、バルビタールを飲んだのではなく、別の手段で身体に入れた ということになります。 注射器などは部屋からは発見されていなく、遺体にも注射の跡はありませんでした。 事実は無理やり押さえ込まれたのち、バルビタール剤とバルビツール剤とともに睡眠薬として 用いられたがを調合した強力なを肛門から入れたのです。 口から無理矢理飲ませるのは、顔や身体に揉みあった証拠を残す恐れがある上に吐く 可能性があるため、肛門から強力な座薬を挿入し毒殺しました。 アルコールは、その前に彼女に無理やり飲ませた物で、死亡原因をアルコールにするための カムフラージュにすぎません。 マリリン・モンローの死の疑惑も、ケネディ暗殺の直後だっただけにいろいろと囁かれましたが いつの間にかそれも忘れ去られてしまいます。

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オードリーとモンロー : 徒然想

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60年代のアメリカは、色々と政治的な緊張が高かった時代。 ケネディ大統領がピッグス湾事件で キューバ侵攻に失敗したことへの復讐として、CIAがマリリンを殺害したのだとする説が。 でも、なぜマリリンを? 2003年に出版されたマシュー・スミスの著書『被害者:マリリン・モンローの秘密のテープ(原題:)』によると、CIAは死の数週間前にマリリンと精神科医とのやりとりを記録したテープから、大統領の弟であるロバート・ケネディとの関係を知り、ケネディ家への復讐としてマリリンを殺害したとのこと。 2015年に、元CIA職員が臨終の床でマリリン殺害を認めたとのニュースが駆け巡ったけれど、結局はフェイクニュースだったことが判明。 マリリンの死後すぐに出た陰謀説の一つが、 肉体関係にあったとされるロバート・ケネディによる殺害説。 最初に提唱したのは1962年のフランク・A・カペルの著書『マリリン・モンローの奇妙な死(原題:The Strange Death of Marilyn Monroe)』で、二人の関係が明るみに出ることでケネディの政治生命に傷がつくのを怖れたのだと主張。 あまり自説を支持されなかったカペル氏、今度は、マリリンと主治医たち、そして元夫で脚本家のアーサー・ミラーが共産主義者だと非難(カペル氏は反共産主義者)。 1973年にはノーマン・メイラーがマリリンの自伝を書く中でこの陰謀説を再燃させたけれど、確かな証拠は何もなく、本の売り上げのために書いたと認めたそう。 その2年後、ロックジャーナリスト(後に犯罪専門家)のアンソニー・スカドュートももこの説を主張。 マリリンが政治について知りすぎたこと、それを日記に記していたことからケネディに殺害されたと主張したものの、証拠にとぼしい点では先人たちと同じということに。 1985年に出版されたタブロイド・ジャーナリストのアンソニー・サマーズによる著書『女神:マリリン・モンローの秘密の生活(原題:)』は、二人の関係を暴露すると脅したマリリンに、ロバート・ケネディとその義兄(弟)のピーター・ローフォードがアルコールと薬物をすすめたと主張。 サマーズ氏によれば、マリリンは 誤って薬を過剰摂取し、病院に搬送される途中で亡くなったことから、自殺に見せかけられたとのこと。 当時のFBI長官、エドガー・フーヴァーが隠蔽に協力したとも主張するサマーズ氏の説は特に強力とはいえないものの、1983年には マリリンの家政婦だったユーニス・マレーさんによる証言も掲載。 マレーさんが「『ああ、なぜこのことを隠し続けなくちゃいけないのかしら?』といった発言をしたため、さらに事情を聞くと、『それはもちろん、ロバート・ケネディがいたことですよ、もちろん、ロバート・ケネディと関係があったんですよ』と答えた」のだとか。

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マリリン・モンロー死因の謎!ケネディ兄弟、CIAが絡んでいる?!

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「ケースバイケースだ」と言うのは、10月に『The Kennedy Half-Century: The Presidency, Assassination and Lasting Legacy of John F. Kennedy(ケネディ半世紀)』を上梓し、ベストセラー作家となったラリー・サバト()氏だ。 「JFKは、力や影響力のある人々に対しては上品で礼儀正しく振る舞った。 だが彼の性欲は飽くことがなかった。 今日で言うなら、彼は若く美しい女性を性の対象として扱っていたのだ」と、バージニア大学()政治学センターのセンター長も務めるサバト氏はAFPに語った。 ケネディの人生の中心にいたのは、妻のジャッキーだ。 旧姓ジャクリーン・ブーヴィエ()は1929年7月、裕福な家庭に生まれた。 彼女の洗練されたファッションスタイルには、世界中が注目した。 ケネディがテキサス()州ダラス()で暗殺されたとき、ジャッキーはあのオープンカーで彼の隣に座っていた。 その後の数時間、彼女が夫の血が飛び散ったシャネルのピンクのスーツを着替えることを拒んだのは有名な話だ。 「犯人たちがジャックに何をしたのか見せてやりたい」と、彼女は言った。 ケネディ家は現代アメリカの恵まれた家庭を象徴するイメージを世間に与え続けたが、大統領のプライベートは愛人に囲まれた生活だった。 最も有名なのは女優のマリリン・モンロー()だ。 ハリウッドのセックスシンボルは、1962年の民主党の資金集めパーティーで、色気たっぷりに「ハッピーバースデー」を歌った。 誕生日を祝ってもらったケネディは喜びを隠さなかった。 今年8月に出版された『These Precious Few Days: The Final Year of Jack with Jackie(貴重な数日間:ジャックとジャッキーの最後の年)』の著者でジャーナリストのクリストファー・アンダーソン()氏によれば、ジャッキーは2人の関係を知っていただけではなく、モンローに夫を譲ってあげると告げたという。

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